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庚午のまち

庚午のまち

令和2年は庚午生誕150周年の年でした。
ここでは庚午のまちの変遷を
少しずつ更新しながら紹介していきます。

住民基本台帳登録による庚午小学校区

2021.11末現在 人 口 女 性 男 性 世 帯
庚午北1丁目 2,004 900 1,005 1,151
庚午北2丁目 1,793 932 861 980
庚午北3丁目 1,105 588 517 520
庚午北4丁目 2,025 1,027 998 944
庚午中1丁目 2,565 1,333 1,232 1,192
庚午中2丁目 2,029 1,065 964 946
庚午中3丁目 1,310 695 615 616
庚午中4丁目 2,274 1,190 1,084 1,125
合計 15,105 7,829 7,276 7,474

ポスティングデータによる世帯・住居構成

2015.10.1現在 単身世帯 家族世帯 戸建世帯 集合世帯
庚午北1丁目 502 200 262 683
庚午北2丁目 417 193 113 734
庚午北3丁目 145 148 133 301
庚午北4丁目 353 294 154 703
庚午中1丁目 399 390 142 980
庚午中2丁目 402 294 222 694
庚午中3丁目 213 188 126 438
庚午中4丁目 377 310 218 791
合計 2,808 2,017 1,470 5,324

ウィキペディア

1869年(明治2年)広島では凶作により多数の困窮者が発生し、その救済のため広島藩は大規模な干潟干拓工事を行いました。1870年(明治3年)現在の庚午地区に整備された干拓地は、この年の干支「庚午(かのえうま、こうご)」にちなみ「庚午新開(こうごしんがい)」と命名されました。隣接する草津地区が古くからの漁村であることと対照的に、庚午地区ではサツマイモ、大根などの野菜の栽培に力を入れていました。戦後の困窮期には学校の校庭でもサツマイモが盛んに作られ、広島市立庚午中学校は地元民から「イモ中」と呼ばれました。その後、食糧事情の安定と共に農業は商工業に推移していき、現在では新興住宅や店舗が立ち並ぶ近代的な町並みに発展し、人口は近年も増加傾向にあります。

1869年:
現在の庚午地区一帯の干潟干拓工事着工。
1870年:
干拓工事竣工。整備された土地は「庚午新開」と命名。
1889年:
町村制施行により草津村が設置。「佐伯郡草津村大字庚午新開」。
1909年:
草津村が町制施行され草津町に。「佐伯郡草津町大字庚午新開」
1929年:
草津町が広島市に編入合併。「広島市草津町大字庚午新開」。
1933年:
草津町大字を「草津東」「草津本町」「草津南町」「草津浜町」「庚午町」に再編。
1967年:
庚午町を「庚午中」「庚午南」「庚午北」に再編。
1980年:
広島市の政令指定都市移行の際「広島市西区」に編入され、現在の地名「広島市西区庚午中1丁目‐4丁目、庚午南1丁目・2丁目、庚午北1丁目‐4丁目」となる。

広島の新開地発展図・国土地理院の空中写真(昭和14年 1939/12/06)

出典:国土地理院の空中写真(昭和14年 1939/12/06)